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ニカの誕生
ニコライ・リムスキー=コルサコフは、ペテルブルクから約200H離れたチフヴィンという小さな地方都市で生まれました。家族の年齢構成は少し変わっていました。彼が誕生した時、父アンドレイは60歳、母ソフィヤは42歳、そしてすでに海軍士官になっていた兄ヴォインは22歳でした。

チフヴィンでは幼いニカ(ニコライの愛称)はピアノを習いました。両親はニカの上達が早く、また彼が完璧な耳を持っていることに気づいていました。しかし両親はその才能に特に注意を払うことはしませんでした。12歳になるとニカは、両親の希望により兄と同じ海軍士官となるため、ペテルブルクの海軍兵学校に入校しました。

 


リムスキー=コルサコフの生家(チフヴィン)
チフヴィン修道院

修道院入り口(いずれも古い絵はがきから)

 

 
リムスキー=コルサコフの両親(アンドレイとソフィア)

 

ペテルブルクでの生活
ペテルブルクに来てからは、彼はオペラや交響楽のコンサートに通い始めて、音楽に対する情熱を持つようになりました。彼の新しい音楽教師カニレは、ニコライの音楽的才能に気づき、彼に自分で作曲を試みるべきだと指示しました。カニレは、音楽作品の原則を説明して、彼に課題を与え、間もなくしてサンクト・ペテルブルクの音楽サークルのリーダーだった作曲家ミリー・バラキレフに紹介しました。海軍兵学校の最後の年の間 (1861年〜62年) に、ニコライは、交響曲を作曲し始めました。彼は幸福感に満ち、作曲家になることを夢見ていました。

しかし、母と兄(彼の父は、1862年3月に死にました)は音楽を職業にすることは十分な収入が約束されないと彼を説得しました。そのため、彼は海軍士官にならざるを得ませんでした。海軍士官になるためには、世界一周の遠洋航海に出かけることが必要でしたので、1862年10月、ニコライ・リムスキー=コルサコフはクリッパー船アルマーズ号に乗船し、士官候補生としてクロンシュタット港から出発しました。

 

海軍兵学校時代のリムスキー=コルサコフ

遠洋航海中の作曲
若き作曲家は、船上でも作曲することができるであろうと望みをつなぐことで家族に同意したのでした。しかし、その環境は音楽を作曲するのにふさわしいものではありませんでした。任務のため音楽にさく時間はありませんでしたし、船にはピアノや他の楽器もありませんでした。乗組員の誰一人として音楽に関心のある者はいませんでした。

それにもかかわらず、航海を始めて数カ月の間、主にイギリスでの長い停泊の間に(1862年から63年にかけての冬)、彼は交響曲のアンダンテを作曲しました。しかし、音楽に対する彼の情熱は徐々に弱まっていきました。彼は「音楽はもはや自分の人生の一部ではない」とすら考えるようになりました。遠洋航海は、2年と8ヵ月の間続きました。この間に、リムスキー=コルサコフは、ドイツ、イギリス、アメリカ合衆国(彼はナイアガラの滝へ旅行もしました)、ブラジル、フランスそしてスペインを訪問しました。

 

 

 

自然とのめぐり会いと音楽
航海中、彼は様々な自然、特に海については北半球・赤道付近・南半球それぞれで嵐で荒れたり、穏やかであったりする様子を、また南半球では星をちりばめた満天の空を見てきました。全てのこれらの自然の情景は、際立った印象を彼の記憶に残しました。後に彼はこれらの印象を、自分が生まれ育ったロシア北部の自然の様子と同様に、そのすばらしい音楽的才能を持って表現しました。

彼は、いろいろな美しい音楽の絵画を描きあげました。海を描いたものとしては、例えば「サトコ」「サルタン皇帝の物語」「シェヘラザード」があり、森のざわめきの音を表したものでは、例えば「雪娘」「見えざる町キーテジの物語」を挙げることができます。また、風や空を表現したものとしては「クリスマス・イヴ」「不死身のカシチェイ」などがあります。

 

 クリッパー船「アルマーズ」

交響曲第1番の初演
ロシアに戻ったのち(1865年5月)、リムスキー=コルサコフはサンクト・ペテルブルクで沿岸警備の任務を行う一方で、海軍アカデミー学校に入学するつもりでした。しかし、サンクト・ペテルブルクで再会を果たした以前の音楽の仲間たちは、彼に音楽の世界に戻って、交響曲を完成するように説き伏せたのでした。そして同じ年の12月19日、ニコライ・リムスキー=コルサコフの交響曲第1番はミリー・バラキレフの指揮によりコンサートで初めて演奏され、大成功をおさめました。聴衆は、作曲者が非常に若い海軍士官であるということを知って驚きました。
こうして彼の音楽の経歴が始まったのです。しかし依然として生計を立てていく必要性があったので、海軍での通常勤務をやめたのは8年後になってからでした。

 

リムスキー=コルサコフ(1882年)

多岐にわたる音楽活動
リムスキー=コルサコフの音楽活動は、作曲だけではありませんでした。1871年、27才の時から生涯彼はペテルブルク音楽院の教授であったほか、海軍軍楽隊監督官として10年間(1873-1883)、無料音楽学校校長として7年間(1874-1881)、帝室礼拝堂の副指導者として10年間(1883-1893)働いたのです。
また、ペテルブルク、モスクワ、キエフ、ブリュッセル、パリで30年以上(1874-1907)にわたって交響楽の演奏会を指揮してきました。
彼は、自身の屋敷を構えていたリュベンスクで64才で亡くなりました。

 

 



このホームページはタチアナ・リムスキー=コルサコフさんの
THE FAMOUS RUSSIAN COMPOSER N.RIMSKY-KORSAKOV
AND HIS MUSEUM-RESERVE LOUBENSK-VECHASHA

ご本人の了解を得た上で日本語化したものです。
 

 

 


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